青春シンコペーション


第8章 先生、それは誤解です!(2)


雷雨はますます酷くなっていた。が、そんな中、15分もしないうちにルドルフが車で駆け付けて来た。
「すみません。こんな夜中にお呼び立てして……」
玄関口で彩香が詫びる。
「いえ、構いません。弟が迷惑をお掛けしているようですから……。で、二人は上ですか?」
「え、ええ」
挨拶もそこそこに彼は階段を駆け上がると二人がいる寝室のドアをノックした。が、いくら叩いても返事はなかった。

「ハンス! ドアを開けろ!」
鍵の掛った扉を激しくノックして叫ぶ。
「うるさいっ! 帰れよ!」
中からハンスが怒鳴り返す。
「開けないと蹴破るぞ!」
更に激しく叩く。と、カチャリとロックを外す音がして扉が開いた。
「ハンス! いったい何をして……」
が、そこに現れたのは下着姿にバスローブを羽織っただけの美樹だった。ハンスは奥のベッドでシーツに包まったまま、こちらを睨みつけている。しかも、その両手首にはロープが巻かれていた。そこからするりと手を抜いてハンスが言った。

「出てけよ。プライベートだ」
「何やってるんだ? おまえら……」
ルドルフは呆れた。
彩香の話では、井倉との仲を誤解したハンスが激怒して、美樹に危害を加えるかもしれないと言われて、急いでここへ来たのだ。
「ならば、誤解は解けたんだな?」
「それが……」
美樹が気まずそうに言った。
「いくら言ってもぜんぜんわかってくれなくて、それで……」

「ほう」
ルドルフは意味あり気に目を細めると彼女を見下ろして言った。
「解けないロープの結び方を知りたいなら、俺が指導してやろうか?」
そう言うと彼女の肩に手を掛ける。
「彼女に触れるな!」
ハンスが叫んだ。が、兄の背後にいる彩香を視認して、彼はそこから出られずにいた。
「馬鹿馬鹿しい! おまえらの茶番になんか付き合っていられるか!」
そこに立ったまま呆然としている彩香にルドルフが告げた。
「心配ない。こいつらは放っておけ! それと、井倉の方も問題ない。雨宿り先を確認したからな。俺は帰る」
「でも……」

「いや、こんな不謹慎な場所にお嬢さん一人を残しておく訳には行かないだろう。どうですか? ホテルまでお送りしましょうか?」
「いえ、わたしは……」
彩香が首を横に振った。
「そうだ。やめとけ! そいつは女と見れば見境ないろくでなしなんだから……」
ハンスが喚く。
「何とでも言ってろ! 負け犬め!」
「負け犬とは何だよ? 女子高生にまで手を出してる性犯罪者のくせに……」
「残念だったな。この国では、真剣な交際、且つお互いの合意のもとであれば13才以上の性行為は制限されていない」
「それって……」
その場にいた全員が唖然として男を見つめた。

「ルドルフ、もしかして結婚するの?」
美樹が訊いた。が、それには答えず、彼はその場から立ち去った。
「ねえ、今のって爆弾発言じゃない?」
美樹が言った。が、ハンスは毛布を引っ張り上げて言う。
「彩香さん、悪いけど出て行ってくれないかな?」
「あら、どうしてですの? 先生、ホールでは彩香のこと好きっておっしゃってくださったのに……」
「な……!」
彼女はベッドの縁に腰を下ろすとハンスに身を寄せて来た。

「ちょっと! それってどういうことなの? ハンス!」
美樹が訊いた。
「どういうって、僕はそんなこと言ってない」
「まあ、酷いわ。愛してるっておっしゃったじゃない?」
「ハンス!」
美樹が詰め寄る。
「違う! 誤解だ。僕は本当にそんなこと一言も……」
「誤解? わたしと井倉君のことは信じてくれなかったのに、自分達のことは信じてくれと言うの?」
「違うよ。これはほんとに……。第一、これとそれとはぜんぜん違うですから……」

「この期に及んでまだしらを切るつもり?」
美樹が睨む。
「いい加減に自分が悪かったと認めたらどうなの?」
「悪くない! 僕はちっとも悪くないもん」
「わかった。なら、しばらくそうしていなさい!」
美樹は毛布の上から彼の身体をロープで縛り上げた。彩香もそれに協力した。
「酷いよ、二人共!」
「今頃はきっと井倉君だって辛い思いをしてるのよ。それくらい当然の罰よ」
彼女達はそのまま寝室を出て行った。


その頃、井倉はしおりに傷の手当てをしてもらっていた。幸いにも傷は大したことはなかった。出血の大半は鼻血で、ティッシュを何度か詰めるとすぐに血は止まった。
「よかった。顔に傷なんか残ったら、一生恨まれちゃうもんね」
しおりがほっと胸を撫で下ろす。
「そんなことないよ。僕は誰も恨んだりしない」
そう言いながらもまだ涙が零れ落ちる。
「ごめんね。こんなの、カッコ悪いよね。わかってるんだ。自分でも……。けど、どうしても我慢できなくて……」
「ううん。いいよ。カッコ悪いなんてちっとも思わない。男の子の泣き顔見るの慣れてるから……」
しおりの言葉に同調するように弟も言った。

「そうそう。姫乃の泣き虫といったら半端ないもんな」
「歩! 姫乃お兄ちゃんの悪口言うとぶっ飛ばすからね!」
「だって、ほんとのことじゃん」
姉の手の届かないところまでさっと逃げて歩が言った。
「そうなんだ。じゃあ、きっとしおりちゃんはとってもやさしくて母性の強い女の子なんだね。だからきっと、しおりちゃんの前では、みんな素直になれるんだ」
「そんなこと……」
しおりはてへへとうれしそうに笑った。

「それにしても、この雷、早く止まないかなあ。これじゃ外に行けないし……」
「え? 外に行くことなんかないじゃない」
しおりが言った。
「だってまさか、ここに泊めてもらう訳には行かないよ」
「おれんとこに泊まればいいだろ?」
歩が誘う。
「でも、それは……」
彼の部屋なら、確かに問題ないかもしれない。しかし、歩はあのYUMIなのだ。そう思うと、何とも複雑な思いが交錯した。

「やっぱり僕、行くよ」
「だって、外はまだ雨降ってるよ」
「ハンスの家に戻るの?」
「いや、それはできないけど……」

――おまえの顔なんか二度と見たくない!

(先生……あんなに怒ってたし、無理だろうな。やっぱり……)
「いいよ。何とかするさ。野宿でも何でも……」
「だめだよ! 風邪ひいちゃうよ。わたしね、明日は6時に学校行くから、その時一緒に家を出ればいいよ」
二人から強引に引き止められ、井倉は結局歩の部屋に泊めてもらうことにした。


それでも井倉は明け方近くまで悶々と考え事ばかりして眠れなかった。が、空が白み掛って来た頃、少しだけうとうとした。そして、5時ジャストにしおりの目覚まし時計が鳴った。
「おはよう! 井倉のお兄ちゃん、よく眠れた?」
「うん、まあ」
「ふふ。おにいちゃんって嘘がへただね。目が赤いよ。ちょっと待っててね。お母さんに朝食作ってもらうから……」
「え? 悪いよ、そんな……」
「平気平気! お母さん、意外と他人の面倒見はいい方なんだ」
「待って! 僕がちゃんと事情を説明するよ」
また妙な誤解でもされたら厄介だ。井倉もしおりのあとに続いて階段を下りて行った。

二階から降りて来た井倉を見て、はじめ両親は驚き、特に父親の方は狼狽したが、しおりが昨夜のことを話すとすぐに理解してくれた。
「そりゃ、とんだことだったねえ。ごめんなさいね。うちの子達と来たら、元気が良過ぎるもんだから……。怪我が大したことでなくてよかったよ。すぐに支度するから朝ごはん食べて行ってね」
しおりの両親は親しみやすい良い人達だった。すぐに歩も起きて来て、5人で朝食を食べた。朝食は和食。みんな食欲旺盛で、朝から何杯もお代わりした。


「そいじゃ、早速行きますか?」
しおりが嘆願書の束を持って出掛けた。井倉も一緒に行くことにした。もうハンスはトレーニングに出掛けている時間だ。それに、もし黒木がいれば、白神の家の庭でラジオ体操をしているだろう。が、今は静かだった。
「あら、おはようございます! こんなに速く何処へ行くの?」
白神の奥さんが声を掛けて来た。
(まずい! この人に捕まるとろくなことがないんだ)
井倉は心の中で舌打ちした。

「ねえねえ、こないだのパーティーにいらしてた彼女も同棲してるんですってね。彼女ってあなたの恋人じゃなかったの? それとも、ハンス先生の方かしら? 若いっていいわねえ。外国の人って旺盛なのかしらね。でも、わたしはてっきりあの作家の彼女とゴールインするのかと思ってたけど、こうなって来るとわからないわよ。何しろ芸術家ってほら、恋多き人が多いじゃない? ハンス先生もあんな可愛い顔しちゃってやるもんだわ」
彼女は自らの妄想話を延々と続けた。
「おばさん、悪いけど、わたし達急いでるの!」
しおりが言った。
「あら、今日はしおりちゃんのお伴なの? 大変ねえ」
「とにかく高校まで行かなくちゃならないから……。さよなら」
強引に別れを告げると、しおりは井倉の手を引っ張って駆け出した。

「まったく。あんなのと関わってたら半日経っても終わらないよ。ほんとうにもう、あることないこと言いふらして困るんだから、あの人」
「ご主人の方はいい人そうだけどね」
井倉が言った。
「そう。おじさんはいい人よ。やさしいし、お兄ちゃんの高校の先生やってるんだ。あ、でも、あのおばさんも、お兄ちゃんの署名に協力してくれたから、悪口言うのはやめとこうかな?」


高校までは歩いて40分くらい掛かった。7時は過ぎていたが、まだ正門が開いていない。
「困ったなあ。高校の先生ってお寝坊さんが多いのかなあ?」
しおりが門の前を行ったり来たりしながら言った。
「放課後の方がよかったんじゃない?」
「駄目なのよ。お兄ちゃんの処分、今日の職員会議で決まるんだって。だから、朝一番に届けなくちゃ間に合わないの」
「でも、しおりちゃんだって学校があるだろ? 代わりに僕が届けてあげるよ」
「ううん。やっぱり自分で届けたいの。大好きな姫乃お兄ちゃんのことなんだもん。人になんて任せられない」
しおりは乙女だった。彼のためなら何でもやってあげたいらしい。

7時25分。ようやく職員らしい人が門の鍵を開けに来た。凛と背筋の通ったクールな女性だ。脇に竹刀を持っているところを見ると剣道部の顧問なのかもしれない。
「すみません。こちらの先生ですか?」
井倉が訊いた。
「いかにも。私は武蔵野晴海と申します。この学校の社会科教師。加えて剣道部の顧問をしております」
晴海という名前に井倉はふとどこかで聞いたようなと思ったが、すぐには記憶が結びつかなかった。とにかくこれで署名を受け取ってもらえば良いのだ。

「校長先生はいますか?」
しおりが訊いた。
「校長は8時にならなければ来ません」
「えーっ。困るよ。それじゃ遅刻しちゃう」
しおりが言った。
「校長にどのようなご用件でしょうか?」
武蔵野が訊いた。
「あの、これを渡したいんですけど……。愛川姫乃を退学させないで欲しいという嘆願書です」
プリントの束をどんと渡す。

「ああ。校則に反して破廉恥な小説を書いて、世間に流布したというあれですね?」
「破廉恥なんて時代遅れよ! 今やBLは一つの文化を獲得してるんですからね。本屋の棚に行ってごらんよ。専用コーナーだってあるんだよ」
「しかし、それ以前の問題として我が校では生徒の無断バイトも禁止している。そこにも抵触している訳ですからね」
頑として譲らない武蔵野に、しおりはランドセルから姫乃の本を出して突きつけた。
「じゃあ、これ読んでみてください!」
「し、しおりちゃん……」
井倉は焦った。その表紙には上半身裸の男が抱き合い、周囲には薔薇の花や鎖などが散っている。

「どうせ、読んだこともないんでしょ? おばさん」
「こ、このような俗世の物など……」
「読んでもないのに勝手なこと言わないで! これは文学なのよ」
「このような物が文学などと……」
「嘘じゃないよ。その証拠に、この学校の国語の先生である白神先生だって署名してくれたんだからね」
「何?」
「とにかく見てよ、ここ」
しおりは署名の束から白神の名前が書いてある用紙を引っ張りだすと言った。
「うーむ」
確かに用紙のトップには、その教師の氏名が書かれ捺印もされていた。

「ね? お兄ちゃんの小説はやっぱすごいのよ。そいでもってすっごい芸術なんだから……。ドラマCDだって出るんだ。きっと歴史にも残ると思うの。おばさんだって社会の先生ならそれくらいわかるでしょ?」
「しかしね、お嬢ちゃん……」
が、しおりは引かない。駄目押しともいえる一言を放った。
「もし、退学になんてなったら、気の弱い姫乃お兄ちゃんのことだもの、人生に悲観して自殺しちゃうかもしれないのよ!」
「自殺?」
それを聞くと、さすがの武蔵野も狼狽した。

「だからどうかお願い! 姫乃お兄ちゃんを退学にさせないでください!」
しおりが何度も頭を下げる。
「そう言われても私個人の意見ではどうにも……」
「だから、こうしてお願いに上がっているんです。署名もこんなに集まりました。ぜひ、会議では、この署名のことも十分考慮に入れていただきたいのです」
井倉も真剣に頼んだ。
「わかりました。では、私が責任を持ってこの書類はお預かり致します。そして、あなた方の気持ちも校長にお伝えするとお約束します」
「ほんとですか?」
二人が言った。

「約束しよう。武士に二言はないと」
「武士?」
「我が武蔵野家は代々道場を構え、剣の心得を修練しております」
「なるほど。わかりました。では、よろしくお願いします」
彼らが礼を言うと武蔵野は言った。
「だから、安心して小学校へ急ぎなさい。遅刻厳禁。さあ、走って!」
「はい! それじゃあ、行って来ます」
しおりは言われた通り、全力疾走で駆け出した。
(しおりちゃんって本当にいい子なんだな。それに何だか姫乃君のことが羨ましい。あんなに真剣に愛してくれる人がいるなんて……)
井倉は、だんだん小さくなって行く少女のうしろ姿を見送りながら思った。

その時。
「晴海ちゃーん!」
どこかで聞いたことがあるような声が彼女を呼んだ。
「マイケル!」
井倉が驚いて振り向く。
「あれ? 井倉君、どうしてここにいるんです?」
「マイケルこそどうして?」
「僕は晴海ちゃんにお弁当を届けに来たんだよ。言ったでしょ? 彼女が僕の理想のヤマトナデシコちゃんなんだ」
彼はうれしそうに言った。

「何だ? 二人は知り合いか?」
武蔵野が弁当を受け取って言った。
「そう。ちょっとした知り合い。あ、そのプリント、署名のでしょ? 井倉君が届けに来たの?」
武蔵野が持っていた紙の束を見てマイケルが訊いた。
「ええ。でも僕はしおりちゃんの付き添いで来ただけなんですけど……」
井倉が言い訳する。

「それにしても、随分たくさん集まったね。これには僕もサインしたんだ。晴海ちゃん、よろしく頼みます」
マイケルも彼女に頭を下げた。
「うむ。では、校長には私からも進言しておこう」
「サンキュー! 愛してるよ、 僕の可愛いナデシコちゃん」
武蔵野はとっくに背中を向けていた。が、マイケルはいつまでもそちらを見て投げキッスを送っている。
(ヤマトナデシコ? それって何か違うような……)
納得がいかないまま、井倉は武蔵野が消えた校舎の辺りを見つめていた。

「そういえば、こないだのお見合いの時は大変だったね。ご苦労様」
「いえ、僕は何もしてませんし……」
「来週発売の週刊誌に、浮屋親子の悪事を暴いた記事が載るよ」
「そうですか」
井倉は元気がなかった。
「僕はこれから仕事なんだけど、君はハンスのところに帰るのかい?」
「いえ」
「それじゃあ、どこかお出掛け?」
「……」
井倉は黙っていた。

「どうしたの? ハンスと喧嘩でもした?」
「いえ」
(あれは喧嘩なんかじゃない。一方的に先生が誤解して……それで……)
生徒が何人か登校して来る。二人は正門の前を離れ、少しずつ歩道を歩き始めた。
「彩香さんとはどう? 少しは進展したかい?」
「進展? それってどういう意味ですか?」
思わず足を止めた井倉が彼を見る。
「だって、彼女のことが好きなんでしょう? だからこそ、ハンスだって彩香さんのことあんなに真剣に奪い返そうとしてた。そうでしょう?」

「僕のために……?」
「違うの?」
(ハンス先生が……)
が、井倉は頭を振った。
「……余計なお世話だよ」
「え?」
二人の声をかき消すように大型バイクが通り過ぎる。

「彼女は……ハンス先生のことが好きなんだ。なのに、みんなが勝手に僕に気を遣って先回りなんかしようとするから……」
「井倉君……」
遠くで鳴く鳥の声……。
「そうだよ。みんなが勝手に……! だから余計に話がややこしくなるんだ! うまく行く筈がないのに……!」
(そうだよ。うまく行く筈がない)
井倉はその場を駆け出した。
「井倉君!」
マイケルが呼んだ。が、彼は振り返らずに高い塀の角を曲がって行ってしまった。


今更、捻じれてしまった運命の糸を戻すことなんかできない。彼はそう思っていた。何も持たずに飛び出して来たのだ。井倉のポケットには財布も携帯もなかった。このままでは何処かへ行くこともできない。両親に連絡することさえできずに、彼は登校する高校生達の群れを避けるように海辺を歩いた。
真夏の太陽が暑かった。もう梅雨が明けたのかもしれない。透ける海のブルーを見つめていると、井倉は彩香のことを思い出した。彼女が来ていたドレスの裾の広がりを思わせる波が、何度も寄せる。

(バイエル、ブルクミュラー、ツェルニー……。夢のように過ぎた時間……。すべては君のために……。君一人に喜んでもらいたくてピアノを始めた。なのに、君はどんどん僕から遠ざかる……。追い掛けても追い掛けても、僕の手の届かないところへ逃げ去ってしまう。どうして? 所詮は世界が違うというのか? どんなに頑張っても、それは超えることができないの? どうやっても……)
井倉の心は重くなり、深い水底へと沈んで行った。

「井倉! そんなところで何をしてる? 家に戻るんなら乗せてくぞ」
車の中から黒木が呼んだ。
「あ、お帰りなさい、黒木先生……」
思わずそちらへ駆け出そうとして足を止めた。
「何だ? どうした? 早く来なさい」
「帰れない……」
逆光に照らされて、井倉の表情が曇る。黒木が怪訝に思った瞬間、さっと踵を返すと、彼は車とは反対方向へ駆け出した。

「井倉! 何処へ行くんだ? 井倉!」
吹き付ける潮風が、公園のモニュメントに掲げられた旗を勢いよく靡かせた。
「井倉……」
思わず車から降りようとドアを開ける。が、後続の車にクラクションを鳴らされ、やむなく井倉とは逆方向へ車を走らせた。